前回、担任していたYちゃんが不登校になった過程を投稿しました。
教員を辞めた今も、私はYちゃんの一言が心のどこかでずっと引っかかっていました。
日本の子供たちの不登校の数が日に日に増加の一途を辿る昨今。
特に、最近は小学校低学年からの不登校者数の増加が問題になっています。
見ていて辛い、見捨てられないよう懸命に生きる子供たち
私は、小学校教員をしていた頃、子供たちを見て何度も胸が締め付けられるような場面に出くわしました。
テストを返却されるたびに、自分の点数に憤慨し、その怒りを周囲に撒き散らす子。
運動会の全体練習での先生の指導が怖いことから過度に萎縮し、体調を崩す子。
みんなの前で発表する機会があると、みんなからの評価が怖くて声が出なくなる子。
学習発表会の練習で、普段大きな声を出せない子が、体育館の隅まで届くように声を張り上げるよう、先生から声を荒げた指導を受ける子。
先生の指導が威圧的であるが故に、盲目的に先生に服従し、服従しないクラスメイトを排斥しようとする子。
とにかく子供達は、学校という制度の中で
心も身体も緊張状態のまま、
大人に見捨てられないよう懸命に生きています。
それはもう見ていて辛くなるほどでした。
子供にこそ安心感で包まれた空間を
そういった子供たちを見て、子供達に必要なのは
「自分はここにいてもいい」
と心から思えるような安心感に包まれた場所だと強く感じました。
そこには他者との過度な比較も
日常的な能力の点数化も
苦手克服の強要もいらないと思います。
必要なのは、ただ安心して息ができる場所。
きっと不登校になったYちゃんも、そういう場所を求めていたんじゃないかと私は思うのです。
だから、私は学校に居場所を感じられなかった子ども達が、居場所にしたくなるような温かな空間を、どうしてもつくりたいのです。
学習は心の問題が解決して初めて取り組めるもの
心の問題が解決した子から、勝手に学び始める。
これは子どもたちを見ていて最も強く感じたことの一つです。
学習の必要性を唱える前に、
学習に向かえるような心理的安心感があるかどうか
これを一番に考える必要があります。
私がつくりたい居場所
そこで私がつくる子どもたちの居場所は、
子どもたちに何も強要しない
在りたいように在ることが尊重される空間にします。
その子が何かしたくなる、その時を一緒に待ちます。
何か苦しんでいることがあるときは、その苦しみを隣で分け合います。
心のうちに蓄積した様々な思いを、最後まで聴きます。
悲しい時は、一緒に涙を流します。
嬉しいことは一緒に大いに喜びます。
私もあなたも一緒に生きている、という思いで真摯に向き合います。
こんなことが具現化できるような居場所を私は目指します。